〜そして、キミの小鳥は唄うんだってね〜
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作家・岡本綺堂と、修善寺と

  前回の記事で、優れた歌人でもあった鎌倉幕府第3代将軍・源実朝を取り上げた。

実朝は雪の鶴岡八幡宮にて暗殺された悲運の青年将軍として知られているが、彼が将軍の座についたのはわずか11才の時。9才年上の兄、2代将軍・頼家の失脚と死によってのことだった。

実朝の兄・頼家は、父・源頼朝の死後、18才で将軍となっている。野心的な頼家は独自の判断で政治を動かそうとするも、幕府内の権力闘争に敗北。将軍の座を追われ、伊豆の修善寺に幽閉されたのち、北条家の手兵に襲われて若き命を散らしている。

この頼家の悲劇をモチーフに生み出されたのが、かの有名な戯曲『修善寺物語』。明治中期から昭和初期にかけて活躍した作家、岡本綺堂(18721939)の代表作のひとつに挙げられる作品だ。

 

 

『修善寺物語』の主人公は、見事な腕前で知られる面作り師の老人、夜叉王。彼は修善寺近くの村に、二人の娘――上流の生活に憧れる姉娘と夜叉王の弟子と結婚した妹娘――らと共にひっそりと暮らしていた。

ある日。修善寺幽閉中の源頼家が、夜叉王に自らの顔に似せた面を注文する。夜叉王は面作りに打ち込むが、満足のいく作品がなかなか作れないでいた。何度作っても、面には死相が現れてしまうのだった。

やがて、しびれを切らした頼家が夜叉王の家へ催促にやってくる。夜叉王は面の引き渡しを拒むが、そこに姉娘かつらが登場。差し出された死相漂う面をひどく気に入った頼家は、それを持ち帰ることを決める。さらにかつらの美しさと利発さに魅せられた頼家は、彼女を望み通りに側妻とするため、修善寺へと連れて行く。

しかし、その夜。頼家は北条家の討手に襲われる。かつらは父が作った面を被り、頼家の身代りとなって敵の目をごまかすが、そのために深傷を負ってしまう。そして、頼家も見つけ出されて落命する。

瀕死の身で逃げ帰ってきたかつらの話から、面の死相が頼家の運命を予言するものだったことを悟る夜叉王。面作り師として技芸を極めたことに満足した彼は、死にゆく娘を褒め称えるように笑いかけ、その断末魔の表情を写生するのだった。

 

 

『修善寺物語』(1幕3場)が書かれたのは、岡本綺堂37才の明治42年(1909)3月のことという。2年後の明治44年(1911)1月に文芸誌に発表された同作は、早くも同年5月に東京明治座で初演を迎えている。以降、新歌舞伎の演目として人気を博し、現在も上演され続けているのは、多くの方がご存知のことと思う。

綺堂がこの作品の着想を得たのは、執筆の前年の、明治41年(1908)秋。時期遅れの暑中休暇で、伊豆の修善寺温泉を初めて訪れた際のことだった。

綺堂はその時のことを、随筆『修善寺物語 明治座五月興行』(1911)の中で、以下のように語っている。

 

一昨々年の九月、修善寺温泉で一週間ばかり遊んでいる間に、一日(あるひ)修善寺に参詣して、宝物を見せてもらったところが、その中に頼家の仮面というものがある。頗る(すこぶる)大きいもので、恐らく舞楽の面かとも思われる。頼家の仮面というのは、頼家所蔵の面という意味か、あるいは頼家その人に肖(に)せたる面か、それは判然(はっきり)解らぬが、多分前者であろうと察せられる。(中略)

とにかく、この仮面を覧(み)て、寺を出ると、秋の日はもう暮近い。私は虎渓橋(こけいきょう)の袂に立って、桂川の水を眺めていました。岸には芒(すすき)が一面伸びている。私は例の仮面の由来に就いて種々(いろいろ)考えてみましたが、前にもいう通り、頼家所蔵の舞楽の面というの他には、取止めた鑑定も付きません。

頼家は悲劇の俳優(やくしゃ)です。悲劇と仮面・・・私は希臘(ぎりしゃ)の悲劇の神などを連想しながら、ただぼんやりと歩いて行くと、やがて塔の峰の麓に出る。畑の間には疎ら(まばら)に人家がある。頼家の仮面を彫った人は、この辺りに住んでいたのではなかろうかなどと考えてもみる。その中(うち)に日が暮れる、秋風が寒くなる。振り返って見ると、修善寺の山門は真っ暗である。私は何とも知れぬ悲哀を感じてしょんぼりと立っていました。その時にふと思い付いたのが、この『修善寺物語』です。(後略)

 

今から100年余り前の修善寺で、綺堂が頼家のものと伝えられる古い仮面と出会った日の光景。そして、その後の綺堂自身の心の動きが、鮮やかに描き出された一文といえるだろう。

『修善寺物語』それ自体を知らなくても、その誕生のドラマチックな瞬間が、時空を超えて目前に浮かび上がってくるようでもある。

 

 

さて。そんな風にして生まれた『修善寺物語』には、実はもうひとつ。修善寺に伝わる木彫りの仮面以外にも、作品誕生のきっかけとなった「頼家の出逢い」があったとされている。

最初の修善寺訪問からちょうど10年後の、二度目の修善寺への旅を題材に書かれた随筆『春の修善寺』(1918)の中で、綺堂はこんなことを語っているのだ。

 

修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ケ岡にのぼって、源頼家の墓に参詣した。わたしの戯曲『修善寺物語』は、十年前の秋、この古い墓の前で額(ぬか)ずいた時に私の頭に湧き出した産物である。(中略)

その当時の日記によると、丘の裾に鰻屋が一軒あったばかりで、丘の周囲には殆ど人家が見えなかった。墓は小さな祠に祀られて、堂の軒には笹竜胆(ささりんどう)の紋を染めた紫の古びた幕が張り渡されていて、その紫の褪(さ)めかかった色がいかにも品の好い、しかも寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するように見えたのが、今もありありと私の眼に残っている。

 

 

先の修善寺温泉滞在から10年後に書かれたそこで、『修善寺物語』発表の頃にはさらりとしか触れられることのなかった頼家の墓への参詣の様子に、綺堂はここでなぜか詳しく触れている。

そしてさらに、綺堂は頼家の墓での想い出の光景を踏まえた上で、今の、つまりはあの日からちょうど10年後に再訪した際の、かの場所に対する自身の想いをこんな風に語っていく。

 

ところが今度かさねて来てみると、堂はいつのまにか取り払われてしまって、懐かしい紫の色はもう尋ねるよすがもなかった。なんの掩い(おおい)をも有(も)たない古い墓は、新しい大きな石の柱に囲まれていた。色々の新しい建物が丘の中腹まで犇々(ひしひし)と押つめて来て、そのなかには遊芸稽古所などという看板も見えた。

頼家公の墳墓の領域がだんだんと狭まってゆくのは、町がだんだん繁昌してゆくしるしである。むらさきの古い色を懐かしがる私は、町の運命になんの交渉も有(も)たない、一個の旅人に過ぎない。十年前とくらべると、町は著しく賑やかになった。多くの旅館は新築したのもある。建て増しをしたのもある。温泉倶楽部も出来た、劇場も出来た。こうして年ごとに発展してゆくこの町のまん中にさまよって、むかしの紫を偲んでいる一個の貧しい旅人のあることを、町の人たちは決して眼にも留めないであろう。わたしは冷たい墓と向かい合ってしばらく黙って立っていた。

 

 

名作『修善寺物語』の誕生秘話という切り口を用いつつ、語られているのは・・・。綺堂が同作の着想を得た頃の彼の地と、10年の時を経て再訪した彼の地との、明らかな違いだ。

自身の心を強く惹きつけ動かした10年前の修善寺を、10年後の修善寺に探そうとする――そんな自らを、綺堂はここで「むらさきの古い色を懐かしがる私」と称している。しかし綺堂の「懐かしい紫の色」は、その後の町の賑やかな発展とともに、もはや見つけ出すことができないものとなっていた。

そして、綺堂はまたこう語る。「むらさきの古い色を懐かしがる私は、町の運命になんの交渉も有たない、一個の旅人にすぎない」と。そしてさらに、そんな自分を、修善寺の「町の人たちは決して眼にも留めないであろう」とも。

そこには岡本綺堂という表現者の、「時の流れ」というものに対する独特の眼差しが感じられてならない。時の流れとともに失われていく運命にあるものへの、少しばかりの感傷を含んだ温かい愛情と、それをひどく落ち着いた客観性をもって見つめている、綺堂独特の眼差しが・・・。

 

 

岡本綺堂は明治5年(1872)、東京に生まれている。維新後まもない東京で、江戸の記憶の残像を強く感じながら育った彼は、英国公使館に勤める元徳川家御家人を父に持ち、物心着いた頃から西洋の息吹をすぐ近く感じてきた人でもある。

そうした環境の中で、父に漢詩を、叔父に英語を学んだ綺堂は、やがて新聞記者となって「物書き」の道を歩み始める。記者として記事を書く一方で、小説や戯曲を執筆。『修善寺物語』などの成功を経て、40代以降は作家活動に専念。江戸の記憶の残像を鮮やかに再生した『半七捕物帳』シリーズや、幼い頃より親しんだ伝説や怪談を趣ある物語として再生した怪奇譚など、今に読み継がれる作品を数多く生み出ている。

 

 

明治・大正・昭和初期の、激しく移り変わる時代の中で、綺堂はその時代の姿を、異なる文化や価値観が交差しつつ進みゆくその様を、常に独特の眼差しで捉えてきたといえる。

例えば、あの「むらさきの古い色を懐かしがる私」「むかしの紫を偲んでいる一個の貧しい旅人」としての綺堂は、修善寺においての彼ばかりでは決してなく・・・。表現者としての人生を生きた綺堂そのものの姿であったに違いない。

綺堂が強く心惹かれ、追い求め続けていたものは、たぶん・・・すでにこの世には存在しなくなってしまったもの。もしくは、存在しなくなりつつあったもの。変化する「今」を肯定的に生きながらも、もはや手に取れなくなったものに、手に取れなくなりつつあるものに、強く心を寄せずにはいられなかったのだろうと思う。

 

 

過去も、かつて「今」だった。そして「今」も、やがては過去となっていく。時の流れはその繰り返しによって、ゆっくりとそして時には速く進んでいく。

過去が「今」だった頃に想いを馳せながら、「今」が過去になっていく瞬間を凝視する・・・。そしてそこに、変わることない人間のドラマを見出し、それを物語として描いていく・・・。過去と「今」が見事な形で交差する、皮膜虚実な永遠の物語として・・・

岡本綺堂という表現者は、そんな人ではなかったか、と――。『修善寺物語』誕生に秘められた「物語」に触れ、想う私だ。

 

 

 
源実朝の、生命(いのち)の歌

   立春を過ぎた頃から、寒さの中にもほんのりと春の気配が感じられるようになった。

少しずつだが気温も上がり、あちこちで草木が若芽を吹き出している。

季節はもはや冬ではない。そう思うと本格的な春の訪れが尚更に待ち遠しくなる。

さて。そうした時期にあって、ひとつの、ひどく美しい和歌との出逢いを得た。

いにしえの時代に春到来の様を詠った和歌の作者は、源実朝(みなもとのさねとも 11921219)。鎌倉幕府第三代将軍として知られるその人だ。

 

 

今朝みれば山もかすみて久方の 天の原より春は来にけり

 

「正月一日よめる」との詞書(ことばがき 和歌や俳句などでその作品を作った日時や場所、背景などを記した前書き)が添えられた、この歌の舞台は旧暦の正月、つまりは今でいう立春の朝。

新春とはいえど「春は名のみ」。空気はまだずいぶんと冷たく、雪が降り積もることさえあったりする。が、しかし・・・。目前にそびえる山は、ぼんやりと霞がかかり、おぼろげに見えた。

冴えた冬から潤う春へと移り変わるその瞬間。源実朝の若く瑞々しい感受性は、たしかにそれを感じていた。「天の原」=「広々とした大空」より、春はやって来るのだ、と・・・。

実朝はひどく心を躍らせたに違いない。旧暦正月の、新春の朝の、ひどく新鮮な美しき発見に。この歌からはそれが生き生きと伝わってくるようだ。少なくともわたしにはそう感じられた。

800年余りの時を超えて・・・それはひどく美しく、感動的な体験だった。

 

 

これほどの感動をもたらしてくれた、源実朝とは・・・。はたしてどのような人物だったのだろう。

ご存知とは思うが実朝は、平氏を倒し、鎌倉幕府を開いた源頼朝と、尼将軍とも称された北条政子の二男として誕生している。

実朝が生まれたのは父頼朝が征夷大将軍となった年だった。しかしその8年後、頼朝は突然の死を迎える。父のあとを受け継いで、9才年上の兄・頼家が二代目の将軍となった。高いプライドを持つ頼家は、やがて権力争いの渦の中に。そして、それに敗れて追放され、幽閉先の修善寺にて落命する。

実朝はわずか11才で三代将軍の座につくこととなった。幕府の政治は御家人たちの合議制によって進められ、その頂点に立ったのは母政子の実家、北条家。幼い実朝はいわば飾り物の将軍に過ぎなかった。

それでも実朝は、将軍として決して無能な人物ではなかったらしい。鎌倉の民に心を寄せ、その暮らしがより良いものになることに、密かに心を砕いていたともいう。そして彼は知っていた。自らに課せられた運命というものを。幼い頃より肉親や近親者間の争いと死のドラマを目の当たりにしてきた彼の苦悩は、それゆえに深いものだったに違いない。

 

 

そんな実朝が強く心を惹かれたのが和歌だった。父頼朝も好んで歌を詠んだというが、実朝はその才能をたぶん受け継いでいたのだろう。幼少の頃より和歌に親しんできた彼は、若くして数多くの作品を生み出していくこととなる。

実朝は17才で疱瘡(天然痘)に罹っている。病は回復したものの、その顔にはあばたと呼ばれる瘢痕が残った。多感な年頃の彼が受けたダメージは想像以上の大きさだったことだろう。実朝はその後3年ほど外の世界と距離を置く。そして、幼き頃より親しんできた和歌をなお一層に心の拠り所とするようになっていった。

小倉百人一首の選者として知られる歌人・藤原定家に習い、『方丈記』の作者であり「新三十六歌仙」にも選ばれた歌人にして作家の鴨長明と親交を結ぶ中、実朝は歌作りの才能を磨いていった。

そして、実朝22才の1213年(建暦3年)12月。自身の作品をまとめた歌集『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』を編纂する。それは藤原定家より贈られた相伝の『万葉集』がきっかけだったともいわれている。

 

 

さて。『金槐和歌集』が編まれたとされる年の2月。鎌倉でひとつの事件が勃発した。

幕府の実権を握る北条義時(政子の弟)を打たんとする企てが露顕した。反逆の罪で捕らえられた者たちの中には、頼朝の時代からの家人である老将和田義盛の息子らもいた。実朝はその時、義盛のそれまでの功労から息子らの罪を許した。が、叔父義時はこの機に狙って和田一族の壊滅を図る。義時の度重なる挑発に、義盛はついに耐え切れず、幕府に対する戦いを起こした。

そして実朝は、ここでひとつの哀しい別離を体験する。側近の一人として仕えていた和田朝盛は、弓の名手であり、歌人としても優れた能力を持つ青年だった。実朝はこの青年を寵愛していたといわれている。和田義盛の孫である朝盛は、この戦いによって実朝と祖父との板ばさみとなり、武士の身分を捨てて出家を決意。実朝に別れを告げ、京へと旅立った。

あの『金槐和歌集』が生まれたのは、その年の暮れだったとされている。固い絆で結ばれていたのであろう朝盛との、哀しい別れ。歌集の誕生には、もしかしたら・・・・。その出来事が何らかの形で関係していたのかもしれないと、ふと思ったりもする。

 

 

『金槐和歌集』編纂から5年後の、1218年(建保6年)12月。28才の実朝は朝廷より太政官の最高位である右大臣の任命を受けた。そして、翌1219年(建保7年)1月27日(新暦だと2月20日)。実朝は運命の夜を迎えることとなる。

その夜、鎌倉には二尺(約60cm)ほどの雪が積もっていたといわれている。右大臣任命の拝賀で鶴岡八幡宮を訪れた実朝は、それを無事に終えて、神殿前の長い石段を降りていった。彼が暗殺者の手によって命を奪われたのは、まさにその途中の出来事だった。

実朝を殺したのは、彼の実の甥。亡き兄頼家の息子、公暁だった。頼家の死後、出家させられていた公暁は、そのとき祖母政子の意向により鶴岡八幡宮の別当となっていた。

通説によれば、石段脇の大銀杏の陰から飛び出した公暁は、「父の仇」と叫びながら実朝に斬りかかったという。そして実朝の首を切り落とし、それを抱えて逃亡。しかしその公暁もまた、やがて反逆者として討ち殺されている。

公暁による実朝暗殺には、陰で糸を引いていた者の存在があったといわれている。権力を得るためならたとえ身内同士であっても殺し合うことを厭わない者たちの、誰かが公暁を操っていたのだろう。

そして実朝もまた・・・。いつか必ずその日がやってくることを、密かに覚悟していたともいわれている。

 

 

豊かなる山々と果てなく広がる海の間に開かれた都、鎌倉。そこに生まれ育った実朝には、大自然の力強くも美しい景観を素材とした歌が数多くある。

冒頭に記した「春の霞」の歌も、だが。その中でわたしがもっとも好きなのが、大海原から磯にむかって打ち寄せる波の様を詠った以下の歌だ。

 

大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも

 

この歌に、孤独な将軍実朝の内に宿るニヒリズムを見出した文学者も多いという。権力の道具に使われ、失うものばかりだった実朝の、ひどく醒めた眼差しがここにはある、と。

そう言われればたしかに、ではある。が、しかし、わたしはそれとは明らかに異なる何かを、この歌に感じてならない。「われて、くだけて、裂けて、散るかも」の、躍動感あふれるリズム。言葉と言葉の連鎖が奏でる、生き生きとした音楽のようなそれに、わたしはひどく魅せられているに違いない。

 

 

28年の短くもはかなげな生涯から「悲劇の将軍」とのイメージが強い実朝だが、彼が生んだ歌はどれもがひどく生き生きとした躍動感に満ちている。清らかで透明な明るさと若々しい生命の息吹に包まれている。死を絶えず間近に感じながらも、生あるものすべてを慈しみ、まるで共鳴し合おうとでもしているような・・・。少なくともわたしはそう思う。そう思わずにいられない。

それは、苦難多き人生を懸命に生きた一人の青年の、生命(いのち)の歌。瑞々しい感受性によって、ありとあらゆる生命をひたすらに愛おしもうとする、生命(いのち)の音楽・・・。

たとえどんな状況にあったとしても、わたしたちが生きる世界は、こんなにも素晴らしいのだ、と・・・。そんな風な呼びかけが、実朝の歌から聴こえてくる気がしてならない。

 

 

それはほんのりとした春の気配とともに、「天の原より、来にけり」の、極上の贈り物。

800年余りの時を越え、めぐり逢えたその歌の、その音楽の、今わたしはすっかり虜となっている。

 

 

イギリスの保存鉄道は、素敵だ!

  我が家の息子は筋金入りの鉄ちゃん(鉄道マニアの通称)だ。物心ついた頃から鉄道が大好きで、鉄道員になる日をずっと夢見続けてきた。

が、長年の願いもむなしく鉄道会社への就職に次々と失敗。それでも夢を捨てられず、大学卒業後も3年にわたって悪戦苦闘な努力を続けてきた。そして昨年春、ついに夢を実現。いま彼はJR東日本の東京支社の某駅で新米駅員として働いている。

駅員の勤務は泊まりが多い不規則なもので、業務内容は多種多様。覚えることが山のようにあり、けっして楽しいばかりの毎日ではないらしい。ヘマをして凹むことも多々あるようだ。

しかしそれも、大好きな鉄道の世界で働けるからこそのこと、と彼は明るい笑顔を見せる。幼い頃から一途に貫き続けてきた「鉄道愛」は、本物だったのだなぁ、と。しみじみと思う今日この頃だ。

 

 

さて。今回ご紹介する『英国の鉄道員の制服』(石井理恵子著 新紀元社)は、そんな我が家の鉄ちゃんもびっくり!の「鉄道愛」の持ち主が大勢登場するビジュアル本だ。

タイトルだけを見ると鉄道各社・各路線の制服カタログのように思えるが、本書で紹介されているのは制服そのものではなく、それを着て生き生きと仕事に励むイギリスの鉄道員さんたちの姿だ。

たとえば・・・。三つ揃いの制服の胸ポケットに赤いバラをさしたダンディーな車掌さん。年季の入った制服と穏やかな笑顔がよく似合う老駅員さん。色落ちの具合が絶妙な作業服に身を包んだ蒸気機関車の運転手さん。黒々とした油汚れが誇らしげなつなぎ服姿の整備士さん。お揃いの色でまとめたベストとスカートとエプロンでにっこり笑う食堂車のウェイトレスさん。白いワイシャツにネクタイをきりりと絞めた列車内の売店係さん・・・等など。驚くほどに様々な、老若男女な鉄道員さんたちが登場する。

『英国の鉄道の制服』に紹介されているのは、そのほとんどが正規の鉄道職員ではなくて、いわば私たちと同じフツーの人。イギリスに100以上あるという「保存鉄道」でボランティアとして働く人たちだ。

 

 

鉄道発祥の国として知られるイギリスには、かつて大小合わせて100を超える鉄道会社が存在していた。やがてそれらが「ビッグ・フォー」と呼ばれる4つの鉄道会社に統合され、さらに戦後まもなく国有化によってイギリス国鉄が誕生する。

イギリス国鉄の時代は1994年から1997年にかけて行われた民営化まで続くのだが、その間、自動車の普及にはじまる道路輸送の拡大により、鉄道は経営不振に陥ることとなる。それを打開するため、1960年代に入ると利益の少ない地方路線や各駅停車しか停まらぬ小さな駅を次々と廃止。その結果、イギリスの鉄道路線の25%と駅の50%が削除されたという。

しかしその直後から、イギリスの各地で鉄道愛好家を中心とした路線存続の運動が発生。彼らは募金を集めて廃止された路線の一部を買い取り、ボランティアによって運行される「保存鉄道」として蘇らせたのである。

イギリスにはそうした「保存鉄道」が100以上もあるという。多くは蒸気機関車とクラシックな客車を使用した観光列車として運行されているが、中にはディーゼル機関車によって地域輸送用としても運行されている路線もあるとのこと。それらのほぼすべては現在もボランティアによって運営されており、その人数は正規鉄道員の何十倍あるいは何百倍ともいわれている。

 

 

ビジュアル本『英国の鉄道員の制服』に登場する「鉄道員」の大半は、この「保存鉄道」を守り支えているボランティアたちだ。

ボランティアには、もちろん過去に鉄道に携わっていた人も少なくない。が、その中心はその路線を愛する鉄道ファンや地元の住民など。主婦や学生、定年生活を送る人、親子で活動に参加している人、遠く離れた地域からやってきて週末やホリデーシーズンのみ作業に従事する人など、そこには実に様々な人たちがいる。

ボランティアには当然のことながら、元鉄道員としてのスキルをもつ人もいれば、初めて鉄道の仕事に関わるという人もいる。年齢層も老人から少年少女までとかなり広い。そうした人々が互いに助け合い、協力し合いながら働いているのも「保存鉄道」の大きな特徴だ。「鉄道愛」という共通点があればこその・・・といえるだろう。

ちなみに。人気のある仕事は機関車の運転手や整備とのこと。他にも切符の予約受付係や売店の店員、食堂車のサービス係、駅周辺の清掃等など、あらゆる分野にニーズはある。「保存鉄道」によっては様々な訓練をした上で、日によって異なる仕事に従事するところもあるとのこと。多様な仕事を経験することで、より一層鉄道に詳しくなれるわけでもある。

 

 

とろこで。『英国の鉄道員の制服』に登場する鉄道員たちの制服だが。「保存鉄道」で制服を支給しているところはごくわずかなため、自らの役割に合わせた制服をボランティア自ら用意している場合がほとんどとのことだ。

たとえば・・・。現役時代の制服に身を包んだ元鉄道員がいるかと思えば、その路線の昔の制服をインターネットのオークションで探し出して着ているという人も結構いたりする。また、自前の三つ揃いのスーツやジャケットに大好きな蒸気機関車のバッジを付けている人や、手作りの鉄道のロゴを貼り付けている人もよく見かけられる。つなぎ服やオーバーオール姿の作業員たちの中には、バンダナでおしゃれにアクセントをつけたり、お気に入りのハンチングを被っていたりする人も・・・。

彼らが身につけている「制服」は、各鉄道の特色やカラーに合わせつつ、それぞれの趣味を少しずつ反映させた個性的なそれだ。思い思いの工夫を凝らしたその姿は、まさに「鉄道愛」でいっぱい!という感じ。大好きな鉄道に関わる喜びや楽しさを感じずにいられない。

 

 

一旦は廃線されてしまった鉄道路線が、それをこよなく愛する人たちの手によって、現役として蘇り・・・の、イギリスの「保存鉄道」。それを支え、生き生きと楽しげに働くボランティア鉄道員の姿を見ていると、日本でもこうした形で失われた鉄道が再生できたらいいのに、と思わずにいられなくなる。

鉄道に関する法律や制度に違いがあり、イギリスと同じようにはなかなかいかない、というのが現実ではあるが。鉄道をこよなく愛する人たちは、この国にも少なからず存在するわけだしね。

ようやく鉄道員になれたとはいえ、3年にわたって悪戦苦闘の努力を続けた鉄ちゃんを息子に持つ者として、鉄道をこよなく愛しながらも・・・な人たちの気持ちが身にしみて切なく・・・でもあったりして。その点においても、正規の鉄道員になるばかりが鉄道に関わる方法ではない、という考えが当たり前のイギリスのように。日本でも・・・と思わずにいられなかったりもする。

なんていうのは、鉄道世界の実情を知らないおばさんの戯言、というやつではあるのだが。我が国の鉄ちゃんの皆々様は、いかがお考えのことだろう。

 

 

 

追記

この記事を書いていて知ったのだが・・・。

2005年9月の台風被害によって運休・廃線となった宮崎県の旧「高千穂鉄道高千穂線」を、「保存鉄道」として復活させようという計画が現在進められているそうだ。

同線の一部分はすでに「高千穂あまてらす鉄道」(鉄道公園の遊具扱いのトロッコ列車)として運転再開しているが、その距離をさらに延長し、将来的には「保存鉄道」としての運行を目指しているとのこと。これが実現すれば、日本で初の「保存鉄道」の誕生となるという。

「高千穂あまてらす鉄道」は、地元在住の人たちや出身の人たちの熱意によって進められている鉄道事業なのだそうだ。イギリスの「保存鉄道」を守り支えているボランティアのような人たちが日本にもいることを知り、ひどく感激してしまった。

ちなみに。私は筋金入りの鉄ちゃんではないが、鉄道への想いはそれなりにある。たとえば、旧信越本線の、想い出の碓氷峠越え(横川〜軽井沢間)を「保存鉄道」として蘇ることがあるとしたら・・・。寄付やボランティア(たとえば車内や駅の掃除係とか)に馳せ参じたい! と密かに夢見ていたりしている。

 

 
上村松園の異色作 『焔(ほのお)』に込められたもの

  表現者にとってスランプほど辛く苦しいものはない。

しかしそれは表現することを生きる宿命とした者が、表現することの真の意味を知るために通らなければならない道、なのかもしれない。

明治大正昭和前期に活躍した天才日本画家、上村松園(うえむらしょうえん 18751949)。逆境の人生に屈することなく数多くの名作品を生み出したその人にも、「描こうにも描けない」辛く苦しいスランプの時期があったという。

評伝などによれば、松園がスランプを体験したのは40代に入ってのことという。大正7年(1918)に『焔(ほのお)』という作品を発表後、彼女は三年間にわたって展覧会への出品を一切断つ。作品発表をそれまでコンスタントに続けてきたのちの、いわば沈黙の三年間――。それこそが松園にとっての人生唯一のスランプ期だった、と見られているとのことだ。

 

 

松園のスランプ期が中年期にあったことを、松園もまた自身の著作の中に記している。

彼女が残した著作のひとつ『作画について』の中で、あくまでもさらりとではあるが、「スランプ」に触れている箇所がある。

松園43才の作品『焔』について書かれた一文に、それは登場するのだが。スランプに陥っていたとされる時期が、一般的に言われている「沈黙の三年間」とは明らかに異なっている。

その時期は「沈黙の時代」より、さらに以前の、『焔』を描いていた時期にあったのだ、と。松園ははっきりと記しているのである。

 

 

「焔」は私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄惨な絵であります。

中年女の嫉妬の炎―― 一念がもえ上がって炎のようにやけつく形相を描いたものであります。  (上村松園作『画作について』より)

 

 

松園が語るところによれば、『焔(ほのお)』は『源氏物語』の登場人物の一人である六条御息所をモデルに描いたものという。

六条御息所は、若き日の光源氏に恋の手ほどきをした、知性と美を備えた身分の高い未亡人だ。光源氏よりずっと年上の彼女は、いわば分別ある大人の女、のはずだった。しかし彼女は、いつしか光源氏を本気で愛するようになる。そして、その愛の深さのあまり、光源氏を取り巻く女たちに激しい嫉妬の炎を燃え上がらせる。ついには生霊となって、女たちに襲いかかり、死へと追い込んでしまうのだ。

松園が『焔』に描き出したのは、愛ゆえに生霊となったおどろおどろしい女の姿だ。蜘蛛の巣と柳の模様の着物に身を包んだ女は、体をやや前屈みに曲げたまま後方を振り返り、長く垂らした黒髪の端を口に噛み、細めた目でこちらをじっと見つめている。青白いその顔には生気というものがまったく感じられない。青白く燃え上がる焔のような、恐ろしくも悲しい女の情念がそこにはたしかに感じられる。

日本人の女性美を同性の視点から追求し、清らかな美に満ちた美人画を数多く生み出した松園の、それは異色中の異色作といえるだろう。

 

 

どうして、このような凄惨な絵をかいたか私自身でもあとで不思議に思ったくらいですが、あの頃は私も芸術の上にもスランプが来て、どうにも切り抜けられない苦しみをああいう画材にもとめて、それに一念をぶちこんだのでありましょう。  (上村松園『画作について』より)

 

 

『焔』を描いた頃に陥っていたというスランプの、詳しい事情。それについて松園は、はっきりしたことを語ってはいない。が、一説によれば松園はその頃、年下の男性との恋に破れ、心に深い傷を負っていたといわれている。

光源氏を愛するあまり、激しい嫉妬心に身を焼いて生霊となった六条御息所。そのおどろおどろしいほどの苦しみや悲しみと同質のものを、当時の松園もまた、その身の内に宿していたのだろうか。忘れようとしても忘れられず、抑えようとしても抑えきれず、ただひたすらに愛する人を欲し、底なしの苦悩に身悶えるしかなくなった、「愛の地獄」のような感情を・・・。

 

 

松園は少女時代より天才画家といわれていた。しかし、彼女が生きていたのは古き価値観が大いに幅を利かせていた時代だった。男尊女卑の社会の中で、松園の画才はなかなか認めてもらえず、女であるというだけで男の画家たちから多くの嫌がらせをも受けたという。

それでも松園は、ただ一途に表現者の道を歩んでいった。そして未婚のまま、27才で男の子を出産する。父親は明らかにされていないが、その子は最初の絵の師匠との間にできた子どもといわれている。そしてそれは、師匠という「権力」に強引に関係を結ばされたことによるものだったともいわれている。

女であるがゆえの様々な苦難。それに決して屈することなく、松園は作品を描き続けた。そして・・・の、中年期を迎えてからの年下の男性との恋と、失恋。それが松園に与えたものの大きさと重さを想像すると、なんとも胸が張り裂けそうになったりする。

ひどく幸福な時間のあとの、狂おしいほどの思慕。そして底なしの嫉妬心と絶望感。愛すれば愛するほどに強まっていく「愛の地獄」の情念が、中年期の松園の心を翻弄し・・・。そして彼女は、表現者として自身を見失うこととなった、だったのではと思う。

 

 

あの焔を描くと、不思議と私の境地もなごやみまして、その次に描いたのが「天女」でした。

これは焔の女と正反対のやさしい天女の天上に舞いのぼる姿ですが――行きづまったときとか、仕事の上でどうにもならなかった時には、思い切ってああいう風な、大胆な仕事をするのも、局面打開の一策ともなるのではないでしょうか。あれは今想い出しても、画中の人物に恐ろしさを感じるのであります。  (上村松園作『画作について』より)

 

 

六条御息所をモチーフとした異色作『焔』。松園のスランプは、一般的にはそこから始まったとされている。しかし松園に言わせれば、それは「行き詰まり」からの「局面打開の一策」ということとなる。

その言葉が偽りのない真実を語っているのだとしたら・・・。松園はあの『焔』を描くことで、自身を翻弄する「愛の地獄」に、ある種の落とし前をつけることができたのでは、と思うのだ。「愛の地獄」を見事に作品化したことによって、彼女は本来の自分を取り戻すきっかけをつかめたのではないか、と。

松園は『焔』の創作に打ち込むことで、「愛の地獄」に陥ったいわばマイナスの状態から、自身をゼロの位置まで引き戻すことができたのだろう。そしてそこから、再びプラスを重ねていく歩みを開始したに違いない。

 

 

松園が画家として活動を始めた明治の時代。日本の美術界には新しい動きが起こり始めていた。ヨーロッパへ留学していた画家たちによって西洋画の手法が持ち込まれた。江戸時代からの日本画の伝統は徐々に脇へと追いやられ、個性を重んじる西洋近代の芸術観に基づく新たな日本画の運動が活発化していった。

そうした流れの中で、松園もまた新たなる創作の領域を求めて思考を重ねていたに違いない。そしてあのスランプは、そんな彼女にひとつの大きな転機を与えた、と。考えることができるだろう。

 

 

スランプの苦しみの中で、『焔』を描きあげた4年後。松園は前作とは対照的な、明るさと豊かさに満ちあふれた女性美を描いた作品『楊貴妃』で画壇に復帰。以後、精力的に創作活動を続け、やがて傑作として名高い『序の舞い』(1936年 昭和11年)を生み出すこととなる。

『序の舞い』について、松園は先の回想文『作画について』で以下のように語っている。そこには上村松園という表現者が、多くの苦難を乗り越えてたどり着いた表現世界の全貌が明確な形で語られている。

 

 

この絵は、私の理想の女性の最高のものと言っていい、自分でも気に入っている「女性の姿」であります。(中略)

序の舞いは、ひとつの位をもった舞いでありまして、私は型の上から二段おろしを選んで描きました。

何ものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意思を、この絵に表現したかったのです。幾分古典的で優美で端然とした心持ちを、私は出し得たと思っています。  (上村松園『画作について』より)

 
コンゴ共和国の「サプール」という、生き方

  アフリカのほぼ中央に位置する、赤道直下の国、コンゴ共和国――。

国土の半分以上を熱帯雨林に覆われたこの国は、年間を通して高温多湿の気候にある。いわば日本の真夏並みの暑さが毎日のように続く土地だ。

こうした土地でのファッションといえば、通気性のいいゆったりとしたスタイルが主流。スーツスタイルでびしっとダンディーに装うなんて、とてもじゃないが・・・と思いがちだ、が、コンゴ共和国にはそうした気候条件をもろともせず、ヨーロピアンなブラントスーツに身を包んで街を行くとびきりの伊達男の集団が存在する。

赤道直下の伊達男たちは、誰もが驚くほどかっこよく、そして驚くほどにエレガント。たとえば、どんなに派手な色を用いたとしても、彼らの装いに決してキッチュになったりしない。その秘密はコーディネートに使う色を3色までと定めているから。そしてその着こなしと身のこなしには、古き良き時代のヨーロッパの紳士のそれが見事に息づいている。さらは見た目だけではなく、その精神にさえも・・・。

伊達男たちにとってのファッションは、単に見た目を飾るものではない。いわば生き方そのもの、といえるそれだ。現地の人々は、そんな彼らをこう呼んでいる。限りなき親愛と尊敬の念を込めて、「サプール」と・・・。

 

 

赤道直下の伊達男たちのファッションは、フランス・パリの195060年代の紳士のそれをお手本としている。その名称を「サップ(SAPE)」といい、それを楽しむ人々は「サプール(Sapeur)」と呼ばれている。

SAPE」はフランス語の「Socie`te` des ambianceurs et des personnes e`le`gentes」(日本語では「お洒落で優雅な紳士協会」「エレガントで愉快な仲間たちの会」などと訳されている)の頭文字をとったもの。かつてフランスの植民地だったコンゴには、今なおフランス文化の影響が色濃く残っており、「サップ」もまたそのひとつといえるだろう。

「サップ」の起源は、1920年代のコンゴの社会活動家アンドレ・マツワにあるといわれている。マツワはパリ在住中、黒人差別反対の運動を展開。コンゴに強制送還後、植民地政府によって投獄された人物だが。1922年に母国に一時帰国した際、パリの紳士の装いに身を包んでいたという。ヨーロピアンなマツワの姿は人々を大いに驚かせたが、そのスタイルに魅せられた者たちによってやがてコンゴ中に広まって・・・というのが「サップ」の始まりといわれている。

「サップ」の起源には諸説あるとのことだが、いずれにしてもコンゴの人々が、ヨーロッパのエレガントな装いに強く魅せられたのには間違いない。そしてさらに、アフリカ独自の美意識が反映され、生まれたのが「サップ」とされている。

 

 

「サップ」なるファッションスタイルが確立されたのは、1940年代から50年代にかけてのことという。しかし、その後「サップ」は一旦すたれてしまう。1960年のフランスからの独立後の、不安定な社会情勢と度重なる内戦によって、ファッションどころではない時代が長く続くこととなったのだ。

生きるのにやっとの日々が続く中、コンゴの人々は切に願ったことだろう。戦いのない平和な時代が訪れることを、そして再びあの「サプール」が街を闊歩する日が訪れることを・・・。暴力を否定し、人を敬うことを第一とする「サプール」の品位ある紳士としての姿勢は、そうした過去の経験によるところも多々あったりするに違いない。

長く続いた闇の時代を経て、復活を果たした「サプール」に、いま多くの若者たちが憧れを抱き、その仲間に加わることを夢見ているという。「サプール」に不可欠な紳士な精神とエレガントなファッションセンスを磨くため、先輩の教えを受けながら、まるで人生修行に励むようにして、「サプール」としてデビューする日を目指しているとのことだ。

 

 

コンゴ共和国の人口の約半分が在住する、首都ブラザビル。同国屈指の大都市のひとつであるこの街に、「サプール」は多く暮らしている。

度重なる内戦のため、首都といえどもブラザビルの街は、今も荒廃した状態にある。市民の暮らしは貧しく、バラックのような家屋に暮らす者も少なくない。「サプール」な男たちも、普段はそうした暮らしの中にある。彼らは少ない給料(平均月給は日本円にして約2万5000円)の半分近くをこつこつと貯めて、お気に入りのブランドの服や靴などを買い揃えていく。それを少しずつ増やしていきながら、「サプール」としての生き方に磨きをかけている。

そんな彼らの存在は、コンゴ共和国の希望の光になっているともいう。コンゴの国民の平均年齢は19才と非常に若い。貧しくともこの国には、未来への無限の可能性があるといえる。「サプール」な生き方に学ぶことは、その無限の可能性を育むことにつながる、と。今、コンゴではそうした考えが広がっているという。

 

 

お金があればなんでも買え、それによって思い通りの人生が送れる、と思いがちだったりもするが。「サプール」のエレガントな装いは、そしてその生き方は、人としての心の豊かさがなりより大事であることを痛感させてくれる。

身も心もエレガントであること。どんな環境にあっても、それを決して忘れない赤道直下の伊達男――「サプール」。彼らの生き方は、とてつもなくかっこいい。彼らの装う姿は、だからかっこいい、のだと。感じずにいられない。

 

 

 

「サプール」が登場する「ギネスビール」の映像

https://www.youtube.com/watch?v=B-3sVWOxuXc

赤いポピーの花と、イギリスの戦没者慰霊のかたち

  ザ・ビートルズの中期の代表作のひとつに、『ペニー・レイン(Penny Lane)』(1967)という曲がある。

同曲の舞台は彼らの故郷イギリスのリヴァプールの、中心部に位置する「ペニー通り」。少年時代のポール・マッカートニーが親友ジョン・レノンの家へ向かうため、たびたび通ったというと想い出の場所だ。

若き日のポールによって作られた同曲に登場するのは、ポール自身の空想世界が織り交ぜられた、ペニー通りの懐かしき情景の数々。たとえば、散髪したお客たちの写真を店頭に飾る床屋や、大雨でもレインコートを着ない銀行家、砂時計を持った消防士・・・。

そしてそこには、11月のイギリスに欠かすことのできない、こんな光景も――

 

 

ロータリーの真ん中にある待合所の中で

かわいい看護婦がトレイにのせたポピーの造花を売っている

 

 

『ペニー・レイン』にも登場する「ポピーの造花」は、真っ赤な紙で作られた募金用のバッチ。日本の「赤い羽根共同募金」の赤い羽根と同じく、助け合い募金に協力したことを示すためのものだ。

この募金活動が行われるは、毎年1111日に向けての約2週間。第一次世界大戦の休戦記念日にあたるこの日は、イギリスでは「英霊記念日」――同大戦以降のイギリス軍が関与したすべての戦争・紛争の戦没者を追悼する日――とされている。

赤いポピーの造花の募金はそうした追悼活動のひとつあり、収益金はすべての戦争の戦没者の慰霊および遺族への支援金として使われているとのことだ。

 

 

イギリスでは毎年11月になると、赤いポピーの造花を胸に付けた人々があちこちで見かけられるようになる。ポピーの造花のバッチは単に募金に協力したことを示すためのものではなく、戦没者への哀悼の意を示す重要なシンボルでもあるのだ。

1111日に最も近い日曜日。ロンドンの官庁街ホワイトホールにある戦没者記念碑の前では、毎年「英霊記念日」の追悼式典が厳かに執り行われる。エリザベス女王をはじめとする王室の人々、首相や官僚、野党党首などの主だった政治家たちが出席しての式典では、午前11時(第一次世界大戦の休戦協定が発令された時刻)から2分間の黙祷の後、出席者それぞれが手にした花輪を記念碑に捧げられる。

その花輪も、もちろん赤いポピーに埋め尽くされたそれ。そしてイギリス国内外にある戦没者の墓地にも、追悼のシンボルである赤いポピーの造花を捧げるのが習わしとなっている。

 

 

赤いポピーが戦没者への追悼の心を表す花となったのは、第一次世界大戦中のこと。その由来は、イギリス連邦に属するカナダの医師であり詩人の、ジョン・マクレー(18721918)が作った詩『フランダースの野に』にあるとのことだ。

カナダのオンタリオ州に軍人の子として生まれたマクレーは、士官学校を卒業後にトロント大学で医学を学び、医師として勤める傍ら詩作を続けたという。ボーア戦争に従軍後、バーモント大学の教授となり、第一次世界大戦が勃発すると老いた父とともに軍へ入隊。軍医としてフランスのフランドルに赴いた。

マクレーはそこで、大学教授時代の教え子の死と直面。その遺体を埋葬した際に目にした光景を、詩『フランダースの野に』として描いた。

 

 

フランダースの野に ポピーの花がそよぐ

幾重にも並ぶ十字架の間に

僕たちの場所と印された地に

ひばりは今も 勇敢に飛んで歌う

砲音の轟く中 その声はかき消されても

 

(ジョン・マクレー作 『フランダースの野に』より)

 

 

第一次世界大戦最大の激戦地となったフランドル地方の、戦火によって荒廃した大地。そこには、戦いで命を落とした兵士たちの墓が無数に並び、そして赤いポピー(ひなげし)の花が咲き乱れていたという。

ヨーロッパでは、ポピーの花は野原や畑に群生する野生の花とされている。その種は地に落ちた後、そのまま何年も眠り続け、何かの原因で土が掘り起こされた際に芽を吹き出すという。マクレーが目にした赤いポピーの花の群れも、激戦地となったことで大地が大きく揺り動かされ、眠りから覚めて一斉に咲いたそれ、だったのだ。

幾重にも並ぶ十字架を包むようにして咲き乱れるポピーの、その花は血のような赤い色。マクレーの目には、それが戦死した兵士たちの血潮のように映ったに違いない。

 

 

そうやって書かれた『フランダースの野に』は、やがてイギリスの雑誌『パンチ』に掲載され、大きな反響を呼ぶこととなる。

第一次大戦に勝利こそしたものの、100万人近くのイギリス人兵士がこの戦いの犠牲となっている。もちろんその陰には、肉親や友人を失った人々が多数いたわけだ。マクレーが詩に描いた激戦地に咲き乱れる赤いポピーの花は、戦場に散った数多くの命の象徴として受け止められ・・・。以来、イギリスではその花を戦没者への哀悼と平和を願う心のシンボルとなったという。

そしてそれはマクレーの母国カナダや激戦地となったフランス、アメリカ等などへと広がっていき・・・。イギリスをはじめとする各国の退役軍人会による、戦没者の遺族と退役者の生活を支える募金活動へと発展していったとのことだ。

ちなみに。かの詩の作者ジョン・マクレーは、1918年にこの世を去っている。伝えられるところによれば、彼は戦地で肺炎を患い、第一次世界大戦休戦の日を迎えることなく逝ってしまったという。激戦地の野に咲く赤いポピーの花のひとつに、彼の命もまた・・・だったわけである。

 

 

ところで。1111日の「英霊記念日」に赤いポピーの花が捧げられる戦没者ゆかりの地――が、日本にも存在していることをご存知だろうか。

神奈川県横浜市保土ヶ谷区にある「英連坊横浜戦死者墓地」がそれだ。約8ヘクタールの広大な敷地を持つここには、第二次世界大戦中に日本軍の捕虜となって没したイギリス連邦(イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ共和国・インド・パキスタン)の陸海空軍の兵士たちが埋葬されており、毎年1111日には追悼の式典が開催されているとのことだ。

イギリスでは第一次世界大戦以降、戦死者の遺体を本国に送還せず、階級差なく一律に現地埋葬することを原則とする法律があるそうだ。これに従って造られた戦没者墓地は、世界200カ国2500ヶ所(墓碑が12つといった場所を含めれば21000ヶ所)に存在。そのすべてが「コモンウェルス(イギリス連邦)戦争墓地委員会」なる機関によって維持管理されており、財政支援はイギリスを中心とした連邦加盟国が担っているという。

世界中にあるこうした墓地には、墓地管理の専任スタッフが常駐。緑の芝生が広がる厳粛かつ美しい慰霊の空間を維持し続けることに務めているという。横浜にある墓地にも日本人1人を含めた複数のスタッフがおり、日々の清掃や芝生の手入れなどが時を越えて続けられているそうだ。

 

 

イギリス各地の街々には、大通りの目立つ場所に必ずと言っていいほど戦没者を追悼するモニュメントが建てられている。また戦没者の共同墓地(異国に眠る多くの兵士のそれはからっぽの・・・ではあるが)も各地に建造されており、国外の墓地同様にどれもが美しく整備されている。

イギリスでは21世紀に入った今も、新たなる追悼のプロジェクトが政府によってさまざまに進められているとのことだ。たとえば、イングランド中央部のスタンフォードシャーに近年造園された「国立追悼森林公園」もそのひとつ。広大な森林に抱かれた公園内のチャペルでは、キリスト教のみならず他宗教の司式を行うことができ、仏式でのそれも可能という。またこの公園には、イギリスと日本の元兵士たちが中心となって立てた「和解の石」というモニュメントもあるそうだ。

 

 

赤いポピーの造花の募金に代表される、時の流れを越えて・・・の戦没者慰霊のさまざまな活動や事業。それらはイギリス人の心から、戦争の記憶を風化させないためのものでもあったりする。

イギリスと日本の間には、歴史や文化の違いがたしかにある。そのため一様にはできないのかもしれないが、しかしそれでも・・・。イギリスの慰霊の姿勢には学ぶことが多い。と感じられてならない、今日この頃だ。

 

 

 

追記

今年2014年は、第一次世界大戦が勃発した1914年からちょうど100年目にあたる。

それを記念する行事や事業が、イギリスをはじめとするヨーロッパの各地で盛んに進められているという。そうした動きは第一次世界大戦休戦100周年にあたる2018年に向かって、さらに力を入れて推進されていくようだ。

そしてそれらは時代を越え、世代を越えて、戦争と平和について改めて考える機会となっていくのだろう。太平洋戦争終結から来年で70周年を迎える日本でも、イデオロギーを越えて・・・のそうした機会が増えていくことを願ってやまない。

 

 
『フレディもしくは三教街』の、「租界」の記憶

  かの有名なシンガーソングライター、さだまさし氏の初期の作品に、『フレディもしくは三教街〜ロシア租界にて〜』という楽曲がある。

ご存知の方も多いと思うが、さだ氏にはフォークデュオ「グレープ」(ギタリストの吉田正美と1972年に結成)として活動していた時期がある。この曲はその時代に作られた作品で、グレープの3枚目にして最後のオリジナルアルバム『コミュニケーション』(197511月リリース)の収録曲として発表されている。

わたしがこの曲を初めて聴いたのは、今から40年近く前の高校生の頃。近所に住むひとつ年上の友人が貸してくれたグレープの例のアルバムによってだった。当時はLPレコードだったアルバムの、B面のラストに置かれたこの曲は、友人の特にお気に入りの曲でもあった。それはたしかに、夢見る年頃の少女の心を強く惹きつけるひどくロマンチックなラブソングであり、そしてひどく切ないそれでもあった。

 

 

『フレディもしくは三教街〜ロシア租界にて〜』(以下、『フレディ』と略)は、タイトルでもお分かりのように、私たちが生まれるずっと昔の、かつての中国に存在した「租界」を舞台としている。

わたしが「租界」というものの存在を知ったのは、実はこの曲によってだった。『フレディ』が忘れられぬ曲として今も心に残り続けているのは、だからなのかもしれない。曲自体の美しさもさることながら、「租界」というものの、そして遠いあの時代の、面影と記憶を鮮やかに伝える作品だから・・・。

「租界」とは、「19世紀から20世紀に列強下の侵略にあった中国における治外法権地域の一つ。外国人の住居・営業のため開放された開港市内の一部で、条約または慣行により外国行政権の行政が認められ、原則として中国人の土地所有は禁止された」(ネット百科事典「マイペディア」より)場所をいう。

『フレディ』に登場するのは、そうした「租界」のひとつで出逢った若き恋人たち。彼と彼女は、もちろん中国人ではなく、それぞれに海を渡って大陸へとやってきた異邦人。しかし、中国でありながら中国ではない「租界」で愛を育むこのふたりは、異邦人でありながら異邦人ではない存在であったりもする。少なくともあの時代の中国では、そして「租界」というものの中では・・・

 

 

フレディ あなたと出逢ったのは 漢口(ハンカオ)

揚子江沿いのバンド あなたは人力車夫を止めた

 

フレディ 二人で初めて行ったレストラン

三教街を抜けて フランス租界へとランデブー

 

 

漢口は、中国の湖北省にかつてあった貿易都市――。東シナ海へと注ぐ中国最大の川「揚子江」と、その支流「漢水」との合流点の北岸に位置したその街は、いにしえの時代より交通の要とされてきた。

19世紀後半、当時清国と呼ばれていたかの国は、ヨーロッパ列強国との戦いに相次いで敗北。その結果、敗者にとって明らかに不平等な条約が結ばれ、列強による半植民地化の時代が到来する。上海や天津、漢口などの主要都市には、「条約港」といわれる貿易港が開港。そしてそこに、西洋の街をそのままに形作った「異空間」――「租界」が誕生した。

漢口にはかつて、5カ国の「租界」が置かれていた。海岸通り(バンド)の南側から「イギリス租界」、「ロシア租界」、「フランス租界」、「ドイツ租界」、そして「日本租界」と。そこは石造りの洋館が整然と建ち並ぶ、いわば東洋のヨーロッパ。「租界」内には各国の領事館や裁判所、警察、銀行、商店などの様々な施設が設けられ、周辺にはイギリス生まれの競馬場やゴルフ場などの娯楽施設も完備されていたという。

当初の「租界」は数百メートル四方と小ぶりなそれだった。が、道路や水道が整備されていくに従い、面積は徐々に拡張されていき・・・。「租界」が置かれた街々は、やがてそこを中心に国際的な商業都市として発展。「新天地」を求めて海を渡ってやってくる人々が、漢口にも多数押し寄せたとのことだ。

 

 

あの頃 私が一番好きだった 

三教街のケーキ屋を覚えてる?

ヘイゼルウッドのおじいさんの 

なんて深くて蒼い目

いつでもパイプをくゆらせて 

アームチェアで新聞を広げてた

 

フレディ あなたも年老いたらきっと

そんなすてきなおじいさんになると思ってたの

本当に思ってたの

 

 

「新天地」を求めて海を渡ってやってきた人々の中には、止むにやまれぬ事情から祖国を離れ、「租界」の住人となった人々も少なくはなかった。

ロシア革命(1917)によって帝国が崩壊した後、「ロシア租界」には多数の白系ロシア人(共産軍に迫害され、他国へ亡命・逃亡した人々。共産主義=赤に対してそう呼ばれた)が移住。祖国を追われた悲しみを抱きつつ、生まれ育った地の文化や習慣をそこで静かに守り継いでいった。

「ロシア租界」にはさらに、ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人たちも定住。帝国崩壊で本来の所有者を失ったその場所は、他の「租界」以上にコスモポリタンな色合いを深めていった。

『フレディ』に登場する「三教街」は、「ロシア租界」のそうした姿を象徴する地区だった。「三つの教えを持つ街」との意をもった呼び名の通り、そこにはロシア正教・ユダヤ教・キリスト教の教会が仲睦まじげに佇んでいたという。

やがて時は流れ、日本軍が大陸へと侵攻する時代が訪れる。1938年(昭和13年)10月、漢口及びその周辺地域を占領した日本軍は、さらなる戦いのための大補給基地を漢口に造り上げた。以降、彼の地には政府や軍部系の商社の進出が増加。漢口は軍事商業都市としての色合いを強くしていくこととなる。

そして、太平洋戦争が勃発し、大陸は完全に日本軍の支配下に。「租界」もまた、同盟国ドイツ及びドイツ占領下のフランスを除くすべてが、日本軍の支配下に置かれることとなる。

 

 

フレディ それから レンガ焼きのパン屋の

ボンコのおばあさんの 掃除好きなこと

フレディ 夕暮れの鐘に十字切って

ポプラの枯葉に埋もれた あの人は一枚の絵だった

 

 

『フレディ』の恋人たちが暮らしていたのは、そうした時代の漢口の、租界。

そこで語られるのは、主人公の女性の愛しくも懐かしい日々のこと。「フレディ」という名の恋人との、ささやかにして幸福な、想い出の日々のこと・・・。

しかし、主人公の女性の夢が叶う日は、ついに訪れることはなかった。フレディとともに温かい家庭を築き、仲睦まじく年老いていく、というささやかな夢が・・・。そして、愛するフレディその人さえもが・・・。彼女の許から、突然に消えてしまった。

ある、ひどく恐ろしくて悲しい出来事によって・・・

 

 

本当は あなたと私のためにも

教会の鐘の声は響くはずだった

けれども そんな夢のすべても

あなたさえも奪ったのは

燃え上がる紅い炎の中を飛び交う戦闘機

 

 

1944年(昭和14年)1218日――。揚子江岸の街・漢口は、アメリカ軍のB29爆撃兵団による大爆撃に襲われた。

飛来した84機のB29500トン以上の焼夷弾を投下。街はたちまち真っ黒な厚い煙で覆われた。さらに、爆撃機や戦闘機の攻撃がそれに加わった。煙に覆われた街から目標物を発見することは難しく、後続の一団は爆弾を辺りかまわずばらまくようにして落としていったという。

約1時間に及ぶ大爆撃は、漢口の全地域を大火災で包んだ。猛火は3日間にわたって燃え続け、ドックや倉庫地域やそれに隣接する住宅地帯のすべてを焼き尽くした。

そして多くの人々の、人種を問うことなく、尊い命が失われた。たぶんきっと、「フレディ」のそれも・・・

 

 

フレディ 私はずっとあなたの側で

あなたは すてきなおじいさんになっていたはずだった

 

 

遠い時代の「租界」を舞台にしたラブソングは、そして静かに終わっていく。

幸福だった日々の想い出を形見として、そのやさしい味わいを、そっと静かに、かみしめてでもいるようにして・・・。

 

 

――フレディ あなたと出逢ったのは漢口

 

 

さだ氏はこの曲を、自らの母の青春の想い出をモチーフに作ったとのことだ。彼の母は青春時代の数年を大陸で過ごし、戦後日本に帰ってきた「引揚者」だったのである。

佐田喜代子氏の自伝的子育て記『永き旋律〜さだ家の母と子供たち〜』(自由国民社)によれば――。彼女が漢口へと渡ったのは1942年。中国で貿易の仕事をしていた兄に呼び寄せられ、17才の喜代子氏は姉とともに大陸へと向かい、海軍の代行機関でタイピストなどをしながら終戦までの3年余りを漢口で過ごしたとのことだ。

若い彼女にとってのその日々は、まるで夢のようなものだったという。住居と勤め先との間には、旧「ロシア租界」の「三教街」や、フランス租界、ドイツ租界があった。彼女はそこを通るたび、レンガ造りのおしゃれな店構えに目を見張り、花屋のショウウィンドウを飾るバラの香りに胸をときめかせ、レストラン「ヘイゼルウッド」やパン屋「ボンコ」のケーキやお菓子の美味しさに心を躍らせた。

それらの日々の中で、彼女は一人のドイツ人の青年と出逢う。そして淡い恋心を抱くようになる。しかし、戦争は徐々に激しさを増していき、漢口にもついにアメリカ軍の爆撃が。それによって青年の住む「ドイツ租界」は跡形もなく崩壊し・・・。彼女はその姿を、二度と見ることがなかった、ということだ。

 

 

三教街で過ごした母の青春は、一体何だったのだろう。「ヘイゼルウッド」や「ボンコ」の想い出は、母の中で、本当の季節としての春のように、柔らかく温かく育まれているようです。けれど、実際には、悲惨な戦争というものが背景にあったはずなのです。だから、ぼくのイメージの中では分裂してしまうのです。別世界のようです。とても不思議な気がするのです。

 

 

母の青春の想い出をモチーフに描いたという美しくも切ないあの曲について、さだ氏は著作『長江・夢紀行』の中でこう語っている。

さだ氏が「ぼくのイメージの中で分裂してしまう」と云う、母の美しい青春の想い出と、その背景にあったはずの悲惨な戦争。別々の世界の出来事のようなそれらをつなぎ合わせることから、さだ氏はひとつの試みを始めたのかもしれない、と個人的に思ったりするのだ。そして、そのための存在が「フレディ」と・・・。

この曲に描かれた、「租界」の情景の夢見るような美しさ。その象徴ともいうべき「フレディ」を失うこと、つまりは美しいものを失うこと、奪われること――。戦争によって引き起こされるいくつもの悲惨さのそのひとつを、さだ氏はそうやって描こうとしたのでは、と思うのだ。

戦争は悲惨なものだ。戦争の本質はそのひとことに尽きる。が、それを具体的な形で語り伝えるのは思いのほか難しいことだったりする。さだ氏の『フレディ』は、まさにその難しさに果敢に挑戦した曲といえるに違いない。

 

 

『フレディ』で歌われる「租界」の情景に、かつてのわたしは一種の憧れを抱いた。

詩的美しさで描かれた異国情趣あふれる「租界」の情景に心惹かれたからこそ、恋人たちを引き裂いたあの残酷な結末に強い悲しみを覚えた、でもあった。

すっかり大人になった今、この曲を改めて聴いた時。ちょっとセンチメンタル過ぎるかな、と感じるところも少々あったりはしたけれど・・・。それでもこの曲に寄せる想いは変わらない。

 

 

 
有島武郎の童話『燕と王子』の、結末と・・・

  『カインの末裔』や『生まれ出ずる悩み』等で知られる大正期の作家、有島武郎(18781923)。

その人が残した子ども向けの作品のひとつに、『燕と王子』(19089年頃の作)というものがある。

タイトルを見てぴんっときた方もいらっしゃると思うが、同作はイギリスの作家オスカー・ワイルドの有名な童話『幸福な王子』を翻案したものである。

 

 

童話『燕と王子』が書かれたのは、有島が作家としての地位を確立する以前の時代のこと。札幌農学校を卒業後、3年余りのアメリカ留学とその後のヨーロッパ遊学の旅から帰国。東北帝国農工大学予科の英語教師として北海道札幌に赴任した頃とされている。

有島は北海道時代に結婚し、3人の男の子の父親となっており、彼が残した童話はその子らに向けて書かれた作品が多い。が、この『王子と燕』はそれらとは異なる誕生の仕方をしている。当時まだ独身だった有島が、幼い甥(妹の長男)のために、あくまでもプライベートな目的で書いたものだった。

有島の甥は当時小学校へ入学したばかり。風邪が原因で病を患う身となり、海辺の町で療養生活を送っていたという。有島はその子のために、以前読んだワイルドの『幸福の王子』を翻案。自ら挿絵まで描いたそれを、病気見舞いとして贈ったのだという。

 

 

翻案とは、原作の味わいを生かしつつ、そのストーリーや設定に創意を加え、新たな作品に作り改めることをいうが。有島の『王子と燕』にも原作とは明らかに異なる、有島オリジナルの演出が各所にみられる。

たとえば――。

ワイルドの原作では、ツバメは川岸で出逢った「すらりとした腰があまりにも魅力的」な葦(あし)に恋をする。が、有島の翻案版でのツバメと葦の関係は、あくまでも友だち。仲良しになった葦と離れがたいがために、ツバメは南の国へ行くことがなかなかできないでいた、という設定になっている。

また原作では、ツバメは葦に夢中になるものの、やがて「彼女」に飽きてしまう。葦は無口で、「いつも風といちゃついて」いる。燕はそんな葦を「浮気っぽい」娘と感じ始める。そして、一緒に旅に出ようと誘ってもただ首を振るばかりの「彼女」に、ツバメはついに我慢できなくなる。「君は僕のことをもてあそんでいたんだな」と叫び、葦の許を飛び去ってしまうわけだ。

一方、有島の翻案版の葦は、どこまでも心優しい友人として描かれている。ツバメが冬の寒さで凍え死んでしまうとひどく心配し、「早く暖かい国へ帰ってください」と懇願する。その結果、葦に心を残しながらも、ツバメはその場を飛び去っていくこととなる。

さらに、王子がツバメに頼んで貧しい人々に与える貴金属の順番や、王子の瞳の宝石の由来等など・・・。原作と翻案番の違いは他にもいくつか存在するが、それらの中で決定的に原作と異なるのが、物語の結末だ。

 

 

ワイルドの原作の味わいを生かしつつも、『王子と燕』にはまったく独自の、有島流の結末が用意されている。

ワイルドの原作では、ご存知のようにツバメは冬の寒さに力尽きて死に、みすぼらしい姿となった王子の像は溶解炉に投げ込まれることとなる。が、彼らの魂は天使によって天国へと運ばれ、そこで永遠の幸福を送ることとなる。つまり王子とツバメの善行は、天国でようやく報われることとなるわけだ。

一方、有島の翻案版では、ツバメが凍えて死ぬことはない。王子の切なる願いに従って、南の国へと旅立っていくこととなる。そして、みすぼらしい姿となった王子もまた・・・。原作同様に取り壊されてはしまうのだが、溶解炉で溶かされたのちにひとつの鐘に再生され、町のお寺に納められるのである。

 

その次の年あの燕がはるばるナイルから来て王子をたずねまわりましたけれども影も形もありませんかった。

しかし今でも町に行く人があれば春でも夏でも秋でも冬でもちょうど日が暮れて仕事が済む時、灯がついて夕炊のけむりが家々から立ち上る時、すべてのものが楽しく休むその時にお寺の高い塔の上から澄んだすずしい鐘の音が聞こえて鬼であれ魔であれ、悪い者は一刻もこの楽しい町にいたたまれないようにひびきわたるそうであります。めでたしめでたし。

 

美しくも温かい余韻を残しながら、有島の『王子と燕』は、こんな風にして終わる。

少しばかりセンチメンタルな感じもあったりはするが、たしかに「めでたしめでたし」といえるようなそれ、として・・・。

 

 

さて。有島の翻案版のツバメはなぜ、王子を残して南の国へと飛び立てたのか。

貧しい人々への贈り物を終えた後も、自らの許を離れようとしないツバメに向かって、王子はこう語りかけている。

 

そんなわからずやを言うものではない。おまえが今年死ねばおまえと私の会えるのは今年限り。今日ナイルに帰ってまた来年おいで。そうすれば来年またここで会えるから。

 

ツバメが王子と出会う前の、親友となった葦との別れ。

そこでもツバメは、葦から同様の説得を受けている。

 

早く暖かい国に帰ってください、それでないと私はなお悲しい想いをしますから。私は今年はこのまま黄色く枯れてしまいますけれども、来年あなたの来る時分にはまたわかくなってきれいになってあなたとお友だちになりましょう。あなたが今年死ぬと来年は私一人っきりでさびしゅうございますから。

 

南の国へと旅立つことをためらうツバメに、王子はそして葦もまた、「来年また会おう」と告げている。

そのために、ツバメは生きなくてはならない。生きて再び、この地へ戻ってこなくてはならない。

王子と葦のそうした願いに応えるため、ツバメはそれぞれの許から旅立っていったのである。

 

 

ワイルドの『幸福の王子』と、有島の『王子と燕』。原作と翻案という「似て非なる」ふたつの作品の、決定的な違い――。

そこには明らかに、作者2人のそれぞれのパーソナリティーの違いがあるのだろう。が、それに加えてもうひとつ。西洋人であるワイルドと、東洋人である有島の、人生観や死生観の違いが感じられてならない。

死後に天国で報われるというワイルドの物語は、明らかにキリスト教的といえる。一方、再会と再生の物語として描き直された有島のそれは、いわば仏教的といえそうだ。(ワイルドの『幸福の王子』の物語とその結末には、キリスト教文化に対する一種の皮肉めいたものも含まれている感じもしたりするが)

有島の『王子と燕』は、病床の甥への励ましの意味を込めて書かれたもの。幼子を慈しむ伯父としての心が作り上げた作品であり、ワイルドの原作通りの結末では差し障りがあったということも・・・だったのではあるのだろうが。

生きていくことへの、さらには一度滅したものが再生されていくことへの、強く大きな希望が感じられるこの作品は、東洋人だからこそ生み出せたものといえるかもしれない。

ちなみに。有島は青春の一時期、キリスト教の信仰者だったことがある。が、『王子と燕』を書いた頃は、すでにその世界から遠のいていたとのことだ。

 

 

療養中の幼き甥に、有島は自作を通して、生きることの美しさと力強さを語りかけた。しかし彼はその後、自ら死を選んでいる。道ならぬ恋の果ての、軽井沢での情死事件。それによって、愛人の波多野秋子とともに自らこの世を去っている。

『王子と燕』を書いた後の有島の、人としての、作家としての人生。有島がその人生で格闘を続けていたのは、生きることの難しさと、さらには人の心の危うさ、といったものだったのだろう。そして、それに疲れて逝った、ということなのかもしれないと思う。

それはまた、『幸福の王子』の原作者ワイルドにもいえることなのかもしれない。一時は時代の寵児と持てはやされたワイルドだったが、のちに起こったスキャンダルな事件によって獄中の人となり、晩年を失意の中で送っている。

しかしワイルドの人生の結末は、有島とは違っていた。失意の人となりながらも、彼は生きることを諦めはしなかった。出獄後は病に冒され、再起出来ぬまま逝ってはしまったが、少なくとも自ら死を選ぶことはしなかったのだ。

 

 

ワイルドにあって、有島になかったもの。それは一体何だったのだろう。

ワイルドは、こんな言葉を残している。

 

人生には選ばなければならない瞬間がある。自分自身の人生を充分に、完全に、徹底的に生きるか、社会が偽善から要求する偽の、浅薄な、堕落した人生をだらだらと続けるかの、どちらかを。

 

もしかしたら有島は・・・と思ったりする。ワイルドの云うところの人生の選択の時に、彼はそのどちらをも選ぶことができなかったのでは、と。そして、そのために、逝ってしまったのではないか、とも。

生きることは、自分自身を選ぶこと――。ワイルドはそれを、しっかりと選んだのだろう。たぶん、彼の云う前者のそれを。だからこそワイルドは生き抜けた――。なのではないか、と思うのだ。

ちなみに、わたしはどうだろう。自分自身を選べているだろうか・・・。なんてことを考えるわたしは、その選択に未だ悩みもがいている人間、なのかもしれない。

 

 

 

有島武郎『燕と王子』 青空文庫

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月を待つ、あいだに・・・

  秋の夜空を仰ぐ時。思い出されるのが小林一茶の、かの有名な句――。

 

名月をとってくれろと泣く子かな  小林一茶

 

幼子が「とってくれろ」とせがむのは、秋の夜空にこうこうと輝く月。ほかのどの季節の月よりも、くっきりと美しく輝くそれ。無邪気な願いが叶えられることはけっしてないが、欲しがる幼子の気持ちはよくわかる。

さて。秋の月は、なぜそれほどに美しいのか、といえば・・・。そこにはふたつの理由があるとのことだ。

ひとつには、秋の空気がほかの季節と比べて乾いているから。空気中の水蒸気量が少ないために、秋は大気のぼやけがあまりない。そのため、昼夜問わず空は明るく澄みわたり、夜空の月もくっきりと見えるのだという。

また、秋の月が美しく見えるのには、夜空に浮かんだその高さも関係する。月は太陽とほぼ同じ軌道で地球上を動いており、季節によって見える高さが違っている。たとえば、春の月は夜空の低い位置に、反対に冬の月はかなり高い位置に現れる。秋の月の位置はちょうどその中間で、月を鑑賞するのに最も適した高さになるということだ。

 

 

そんな秋は、お月見の季節。その主役として最もよく知られているのが、一茶の句に登場する「名月」=「中秋の名月」だ。

「中秋の名月」が見られるのは旧暦8月15日の夜。太陽の動きを元にした作られた現行暦でみると、8月はまだ夏なのに・・・となるが。明治以前の日本では1か月の日付(暦)を月の満ち欠けを元にして決めており、7月〜9月が秋とされていた。

旧暦8月15日はちょうどその真ん中にあたり、「中秋」と呼ばれている。そしてその夜に現れるのが、「中秋の名月」。秋も深まり、天候も安定してきた時期だからこその、美しさもひとしおの魅惑の月――。それが「中秋の名月」というわけだ。

お月見の風習はもともと中国で生まれたもの。日本に伝わったのは、奈良時代から平安時代にかけてとされている。当初のお月見は貴族たちの間で楽しまれていた風雅な遊びだったそうだが、やがてそれが秋の実りに感謝する祭事と合わさり、庶民の中にも広まって、今へと続くお月見の習慣になったといわれている。

 

 

秋にはもうひとつ、「中秋の名月」と並び称される美しい月が存在する。

「中秋の名月」は「十五夜」とも呼ばれているが、そのおよそ1か月後の旧暦9月13日の月――「十三夜」と呼ばれる月がそれだ。

お月見の風習は中国から伝わってきたものだが、「十三夜」のそれは日本独自のもの。現在はあまり見られなくなってしまったが、「十三夜」の月を愛でる習慣もかつては全国的に盛んに行われていたとのことだ。「十三夜」と「十五夜=中秋の名月」のお月見は対の存在と考えられ、ふたつの名月をそれぞれに同じ場所で愛でることが良いとされていた。どちらか片方だけの鑑賞は「片見月」といわれ、縁起が良くないものと忌み嫌われていたともいう。

「十五夜」に並んで美しいとされる「十三夜」は、満月にほんの少しだけ足りない形の月。満月の完璧さと比べれば、それは未完の月ともいえる。しかし、いにしえの日本人はそこに美を感じていた。日本独自の美意識に「不足の美」「未完成の美」というものがあるが、その視点から見れば「十三夜」の方がより美しい、と。そんな風に考えられていたという説もある。

また、雨が降るなど天候が崩れやすい「十五夜」に比べて、「十三夜」の天気は比較的安定しているとのこと。美しい月を高い確率で見ることができるという点でも、「十三夜」は人気があったらしい。

ちなみに。今年の「十三夜」は10月6日。「十五夜」(9月8日)を見逃してしまった方は、まもなくやってくるこの日を楽しみにされてはいかがだろう。

 

 

秋にはさらに、もうひとつ。「十五夜」と「十三夜」に次いで、第三の名月とされている月がある。旧暦の1010日に出る月――「十日夜」がそれだ。

「十日夜」の月は、光と闇がほぼ半分ずつの上弦の月。弓に張った弦が上向きになった形で、これから満月へと向かって満ちていこうとする、勢いのようなものが感じられる月だ。

「十日夜」が見られる時期は、ちょうど米の刈り入れなどを終えた時期にあたるとのこと。紅葉も終わりを迎え、冬の足音がひたひたと・・・な晩秋の夜だ。そのため「十日夜」に行われる行事は、神仏に収穫の感謝する祭事としての意味合いが強い。この日は田の神が山へ帰る日ともされており、お月見をしないところも多いという。

ちなみに。現行暦に置き換えると、今年の「十日夜」は12月1日。晩秋というよりも初冬といった方がよさそうな・・・そんな時期にあたる。「十日夜」を秋祭りとして行っている地域は今も多いが、それらの大半は現行暦の1110日前後に祭りを実施しているとのことだ。

 

 

月は神秘の力をもつという。いにしえの時代の人々は、そんな月を信仰の対象ともしていた。毎月の特定の日の月を神仏と結びつけ、夜空を仰いでそれを拝むことをしていたという。

そうした風習を「月待講」といわれ、たとえば「十三夜」の月を拝すのを「十三夜講」、「十五夜」のそれは「十五夜講」と称したとのこと。

さて、この「月待講」では、月が現れるまでの時間――「月待ち」のひとときを宴会で楽しむ、といったことが盛んに行われていたという。その代表格とされているのが、旧暦の23日の夜に行われていた「二十三夜講」。満月(十五夜)から数えて8日後のこの月は、弓に張った弦が下向きになった下弦の月。そのほとんどを闇に覆われながらもほっそりと美しく輝く、いじらしくもミステリアスな雰囲気をもった月といえる。

「二十三夜」の月が出現するのは真夜中過ぎとかなり遅く、「月待ち」の時間はかなりある。それでも人々は夕刻には集まって、飲食や仲間同士のおしゃべりを楽しみながら、「月待ち」のひとときを過ごしていた。そして、その宴会は夜が明けるまで延々と続けられていた、ということだ。

夜を徹しての「月待講」の目的は、あくまでも神仏の化身である月を待ち、出現したそれを拝むことにある。が、娯楽の少ない時代を生きる人々にとって、それはとびきりにお楽しみなイベントでもあったようだ。

 

 

いにしえの時代の人々は、お月見の席で実にさまざまなスタイルの月の愛で方をしていたそうだ。

たとえば。平安時代の貴族は、夜空の月をそのままに眺めることよりも、酒盃や池に映る月を愛でることを好んだといわれている。さらに時代が進み、お月見が一般的に広く行われるようになってからは、茹でた里芋や茄子に萩の箸で穴を開け、その穴をのぞいて月を見ていたという話も残されている。また、江戸末期に皇女和宮へ献上されたという月見饅頭には、月を見る穴を開けるための目安となる赤い印がつけられていたとも伝えられている。

すすきや萩とともにお月見のお供とされる、真っ白なお団子と栗や里芋や枝豆など。これら実りの秋の産物は月への供物とされてはいるが、その実は月を愛でつつ食するご馳走でもあった。秋の味覚を大いに食しつつ、それを遊び楽しみ・・・な、いにしえの時代のお月見。そこには日本人特有の「日常を楽しむ」ためのアイデアが満載されていて、ともいえそうだ。

 

 

「中秋の名月」はすでに終わってしまったが、秋の美月を愛でるチャンスはまだまだこれからも・・・。たとえば10月8日と117日の夜は、天気さえ良ければ満月を楽しむことができる。

ということで。月を待つ、あいだに・・・。お月見の過ごし方を、あれこれと考えてみるのも面白いかもしれない。

たとえば、いにしえの人々を真似て、(季節感はないけれど)ドーナツの穴から月を愛でてみようか――なんて具合に、ね。

 

 

 

軽井沢の狐の伝説

 

  意外な出来事が起こり、何がなんだか分からず、ぽかんとすることがある。そうした状態を「狐(きつね)につままれる」という。

「狐につままれる」は、狐に化かされる、の意。狐は、日本では古くから、人を化かすいたずら好きの動物として知られている。実際のところは???だけどれども。

 

 

春から秋にかけての、蒸し暑くどんよりとした天気の夜遅く。火の気などないはずの場所に、淡紅色の謎の火が点滅する光景が、かつてたびたび目撃された。正体を確かめようとして近づくと、消えてしまうというそれを、昔の人々は狐火と呼んだ。

この狐火が行列を成してどこまでも続くのが、狐の嫁入り。かつての日本では、花嫁は婚礼の際に、行列を成して嫁ぎ先へと向かっていた。狐火の行列は、嫁ぎ先へと向かう狐の一団が灯す提灯の明かりだと、昔の人々は考えたわけ。ちなみにそれは、長いものだと4km近くもあったという。

また、晴れているのに雨が降る「天気雨」も、狐の嫁入りと呼ばれている。山のふもとは晴れているのに山の上は雨が降っている。それは山の上を行く、狐の嫁入り行列を人目から隠すためのもの、と。はたまた、親元を離れることを寂しがる嫁狐がこぼした涙、と。そんな風に思われていた。

 

 

狐が人を化かす時、最もよく使う手が、人間への、特に若く美しい女性への変幻。

妻帯者や恋人のいる男性を誘惑し、浮気の道へと走らせる女性のことを、「女狐」といったりする。その由来は、美女に化けて男たちを惑わす妖狐にある。

その代表格とされるのが、西日本を中心に日本各地に伝わる民話や伝説のヒロイン おさん狐。「彼女」は痴話喧嘩が大好きで、嫉妬深い一面をもつ妖狐と伝えられている。しかし、人をだますことはあっても殺めることはけっしてない。地域によっては人助けをしていたりして、愛される存在でもあったりする。

 

 

高原のリゾート地・軽井沢。文明開化の頃、西洋人が見つけたハイカラな避暑地として知られるその地にも、おさん狐の伝説が残されている。

軽井沢が、中仙道の宿場町だった江戸時代。町の西のはずれに、「丸子のおさん」という名の狐が棲んでいた。丸子のおさんのねぐらは、現在の旧軽井沢の三度山。当時は丸子山と呼ばれていたこの山は、かつては旧碓氷峠へと続く峠道があることで知られていた。

峠道をやってくる人々の中には、軽井沢宿の女郎の許を足げく訪ねる若者たちも少なからずいたという。丸子のおさんが化かしのターゲットとしていたのは、そうした若者たちだった。

「彼女」は馴染みの女郎に姿を変え、山のふもとで若者を待った。そして、喜ぶ若者と一夜を過ごし、朝になると狐の姿に戻り・・・。驚き怯える若者に、こんな具合に説教をしたという。「もう女郎遊びをするんじゃないよ、わかったね」と。

 

 

丸子のおさんはその後も長生きをして、明治の終わり頃まで生きていたという。

江戸時代の終焉とともにさびれた宿場町となった軽井沢だったが、やがて西洋人が来訪によって、ハイカラな高原の避暑地として再生。丸子のおさんの棲処である三度山のふもとにも、西洋人の別荘がいくつも建つようになった。

だいぶ年老いてはしまったが、丸子のおさんの妖力は、その頃もまだまだ健在だった。夏になって人々が別荘にやってくると、「彼女」は電報配達に姿を変えた。そして、「電報、電報!」と叫んでは、別荘の窓辺に木の葉を投げ込んで楽しんでいたという。

 

 

ところで。丸子のおさんが棲んでいたという三度山は、今も緑豊かな自然環境に恵まれた場所で。そのふもとは古くからの別荘地としてよく知られている。

昭和初期にはこの地に、旧五千円札でお馴染みの思想家・新渡戸稲造が別荘を建設。三階建ての瀟洒な洋風の建物はすでに失われているが、新渡戸が希望して引き入れたという小川が美しい流れを見せる、広大な敷地は今もそのまま残されている。

三度山のふもと一帯は、今はすっかり樹木で覆われてしまっているが、かつては広々とした草原が続く場所だったという。堀辰雄の名作『風立ちぬ』の冒頭には、かつてのその光景が登場する。白樺の木陰に身を横たえた「私」が、その傍らで絵を描く恋人の節子を見つめていた、一面にすすきが生い茂る草原 。堀辰雄の実体験をモチーフに綴られた、愛と死と再生の物語が幕を開けるその場所は、堀が好んで散策した三度山のふもとをモデルとしている。

 

 

「狐につままれる」という言葉は残っているものの、狐に化かされたという話はもはやほとんど聞かなくなった。戦後しばらくの間まで、その手の話は日本のあちこちにあったそうだが。

狐に、本当に人を化かす力があるのかといえば、たぶんそれは人間の空想から生まれたもの、だったりするのだろう。しかし、かつての狐には本当にそういう力があったのかもしれないと、思わせてくれるような伝説や民話が日本各地に存在する。

時代の流れとともに、いつしか日本人はそうした空想を必要としなくなった。と同様に、もしかしたら・・・。狐もまた、その力を失った、なのかもしれない、と。そんなことを思ったりもする。

 

 

今度、旧軽井沢を訪れる時は・・・

なんとも妖しく、そしてお茶目でもあったりする、丸子のおさんの姿に想いを馳せながら、三度山のふもとを歩いてみたい。

そこに広がる静かな別荘地の森のどこかに、丸子のおさんの末裔が棲んでいて。もしかしたら今も、ちょっとしたいたずらをしているかもしれない。なんてことを考えながら・・・

わたしの軽井沢は、そんな空想がよく似合う、清麗にして妖魔な場所、なのだから・・・